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| 縄文・弥生・古墳・飛鳥 |
| 旧石器、縄文時代 最古の人類はアフリカで発見されたアウストラロピテクスである。約40〜50万年前には,北京原人が現れ,さらに,約3〜5万年前に,現代人の祖先といわれるクロマニョン人がヨーロッパにあらわれた。 打製石器を使い,狩りでけものをとり,木の実や草の根の採集をしていた時代を旧石器時代という。約1万年前から新石器時代が始まり,磨製石器が使われ,農耕や牧畜が始まった。 エジプト文明はナイル川の流域で,メソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川の流域で,インダス文明はインダス川の流域で発達した。中国文明は黄河流域で発達し,紀元前1600年頃に 殷という国が作られ,甲骨文字が使われた。 縄文時代/弥生時代 分裂していた中国を紀元前 221年に統一したのは 秦の始皇帝で,遊牧民族の侵入を防ぐために万里の長城を築いた。秦が滅亡した後,漢が中国を統一し,朝鮮半島の北部を征服して楽浪郡などをおいた。 1万年前〜紀元前3世紀を縄文時代という。人々は集団でむらをつくり,植物を栽培したり,狩猟を行い,たて穴住居で生活をしていた。縄目の文様のついた縄文土器が使われ,魔よけのために土偶が作られた。貝殻を捨てたあとである貝塚から当時の様子を知ることができる。 紀元前3世紀ごろ,朝鮮半島南部から稲作が伝えられた。このころから紀元3世紀までの時代を弥生時代という。うすくて飾りが少なく実用的な弥生土器が作られ,穀物の貯蔵のための高床式倉庫や青銅器や鉄器などの金属器が使われた。 古墳時代 紀元前後の日本は倭と呼ばれ,100あまりの国に分かれていた。1世紀の中ごろ(57年),倭の奴の国王が漢の皇帝に使いを送り,金印を授けられた。 弥生時代の1,2世紀の頃の遺跡としては,佐賀県にある吉野ヶ里遺跡がある。 239 年,倭の邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏に使いを送ったことが,中国の歴史書の魏志倭人伝にしるされている。紀元前3世紀から紀元3世紀を弥生時代という。 飛鳥時代@ 3世紀後半,大和地方には強力な国がうまれ,カギ形をした前方後円墳などの古墳が作られるようになった。古墳のまわりには埴輪がおかれ,世界最大級の大山古墳も作られた。この国を大和国家,その政府を大和朝廷といい,その王は大王と呼ばれた。 朝鮮では高句麗が北から勢力をのばし,南部では新羅と百済が小国の統一を進めた。大和国家は百済や,小国が分立していたから加羅地方の国と結んで高句麗や新羅と戦った。朝鮮半島から日本へ移り住んだ人々は渡来人と呼ばれ,漢字・仏教・儒教を伝えた。 593年,聖徳太子は推古天皇の摂政となり,蘇我馬子と協力して政治改革を進めた。まず,家柄にとらわれずに,有能な人物を役人にとりたてる冠位十二階の制度をつくった。また,十七条憲法を定めて,役人の心得を示した。 飛鳥時代A さらに,聖徳太子は中国の隋に,小野妹子らを遣隋使として送った。聖徳太子は,仏教をさかんにするため,大和の斑鳩地方に法隆寺を建てた。この時代の文化を飛鳥文化という。 中大兄皇子と中臣鎌足は,645年蘇我氏を倒して,唐を手本とし公地公民を大原則とする改革に乗り出した。この一連の改革を大化の改新という。このころ,新羅は朝鮮半島を統一すべく唐と連合して百済を滅ぼそうとした。 中大兄皇子は,百済に援軍を送ったが,白村江の戦いで破れ,天智天皇となり,国内の改革に専念した。天智天皇の死後,672年,後継ぎの地位をめぐって壬申の乱がおきた。この争いに勝った大海人皇子は即位して天武天皇になった。 奈良時代@ 701年の大宝律令によって,律令国家のしくみがととのい,710年には奈良に都がうつされた。唐の都長安にならってつくられたこの都を平城京という。中央には二官八省の役所がおかれ,国ごとに国司がおかれた。とくに九州には 太宰府が設置された。 6歳以上の男女に口分田を分け与え死ねば返させる班田収授法が定められた。その一方で租(収穫した稲の3%),庸(成年男子に布で納めさせた),調(地方の特産物)などの重い税を課した。また九州の防備のための防人という兵役もあった。 人口増加もあって口分田が不足するようになったため,743年墾田永年私財法を出して,土地をあらたに開墾した場合は,永久に私有を認めることとした。その結果,貴族や寺社などが,逃亡してきた農民などを使って開墾を進めた。これが荘園の始まりである。 奈良時代A 天平文化は,唐と仏教の影響を受けたはなやかな文化である。聖武天皇は,国王が仏教を厚く信仰すれば,わざわいがなくなり国が治まるという教えにもとづき,奈良には東大寺と大仏を,地方ごとに国分寺と国分尼寺をつくらせた。 この時代に遣唐使が派遣され,唐の制度や文化が取り入れられた。東大寺の正倉院には,遣唐使が持ち帰った工芸品がおさめられている。また,唐の僧である鑑真は失敗を重ね,盲目になりながらも,ようやく来日し,日本に仏教を伝え、唐招提寺を建てた。 この時代の和歌集としては万葉集があり,万葉がなが使われている。歴史書としては古事記と日本書紀がある。また,国ごとに産物や歴史を記した風土記がつくられた。 平安時代@ 8世紀後半,朝廷内の争いや僧の政治への口出しが多くなった。桓武天皇は,794年に平安京に都を移して政治の改革に着手した。桓武天皇は, 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して蝦夷の反乱を鎮圧させた。 また,桓武天皇は,奈良仏教に対抗させるために真言宗の開祖である空海と,天台宗の開祖である最澄を保護した。 894年の遣唐使の廃止によって文化の日本化が進んだ。これを国風文化という。貴族の住居は自然を取り入れた寝殿造となり,絵画では大和絵が描かれた。 平安時代A また平安時代には,かな文字の発明によって文学が発達した。紫式部の源氏物語,清少納言の枕草子,紀貫之らが編集した古今和歌集が代表的作品である。 9世紀中ごろから藤原氏が勢力をのばし,娘を天皇のきさきにして,孫である皇子を天皇にたてた。天皇が幼少のときは摂政として,成人してからは関白として政治の実権を握った。これを摂関政治という。 11世紀の藤原道長・藤原頼通親子のときがその摂関政治の最盛期であった。藤原頼通は,浄土信仰の影響を受けた平等院鳳凰堂を宇治に建てた。 平安時代B 国司の税の取り立てに対抗するために武装するようになった農民は武士と呼ばれ,源氏や平氏などの武士団が生まれた。10世紀の中ごろ,関東では平将門が乱を起こし,瀬戸内では藤原純友が乱を起こした。 東北地方では,奥州藤原氏が勢力をのばし,浄土信仰の影響を受けて平泉に中尊寺金色堂をつくった。 白河天皇は,位を皇子にゆずってからも上皇として政治の実権を握った。これが院政の始まりである。1156年に保元の乱,1159年に平治の乱がおこったが,これに勝利をえた平清盛は,1167年に太政大臣となって政治の実権をにぎった。 |